視点の転換です。かつて炭坑では、毒ガス検知のためにカナリアを連れて抗内に入りました。カナリアが生きていれば危険はないと考えるのです。私は、発達障害の子たちは「社会のカナリア」だと思います。この子たちが生きづらいと感じるのならば、それは社会の方にひずみがあるからだと考えるべきではないのかと。 トム・ハートマンはADHDに関わる遺伝子は狩猟民族に必要なものであったと言っています。ADHDの特徴の一つとされるあえて危険を冒す行動は獲物を得ることにつながり、それが自分の地位を高め子孫を残せました。この遺伝子は農耕民族にとっては必要性が低いですが、芸術、研究、起業などのクリエイティブな分野には有効です。そして、この遺伝子が人類に無益なものであればとっくに淘汰されているはずなのに今も残っているのは、意味のある多様性の一つだからと考えることもできます。 将来的には遺伝子治療の技術で発達障害に結びつく遺伝子の状態を変えられるかもしれません。でも、それは人類にとって本当に幸福なことなのでしょうか。