題目: 遅延リスクに対する選好の実証的検討

氏名: 小室 匠

担当教員: 亀田達也


リスク下の意思決定は様々な学問分野において主要なトピックのひとつである。ここでいうリスクとは、これから生じる事象が不確実であり、確率によって変動することを指す。ギャンブルのように、確率によって金額が変動するリスク(資源量リスク)に着目した研究は数多く存在する( e.g. Kahneman & Tversky, 1979)。それに対して、企業における納期の遅延、商品の配送の遅れなど、結果の実現時期が不確実なリスク(遅延リスク)の下での意思決定に関してはこれまで着目されてこなかった。

本研究は、人々の遅延リスクに対する選好を明らかにすることを目的とする。遅延リスク選好を予測する理論は、二つの学問分野から提唱されている。

動物行動学からは、Energy Budget Rule(EBR)という理論が提唱されている(e.g. Stephans, 1981)。これは生物の採餌戦略を予測する理論である。EBRによると、生物個体の資源量・遅延リスクに対する選好は、飢餓レベルに応じて変化する。普段は資源量・遅延リスクに対してリスク回避的な選好を示すが、飢餓レベルがある一定の水準を超えると、リスク追求的に振る舞うようになる。人間のリスク選好がEBRに従うことを示した知見は乏しい。だが、資源量リスクに関して、金銭的な損失を経験するとリスク回避的からリスク追求的に人々の選好が変化する(Kameda and Davis ,1990)など、EBRの予測と類似した知見は多い。このことは、人間の遅延リスク選好もEBRの予測に従う可能性を示している。その場合、飢餓レベルの低下が金銭の損失経験と対応していると考えられる。つまり、人間においては、一般的には遅延リスク回避的、損失を経験すると遅延リスク追求的に振る舞うことが予測される。

一方、経済学では、Discounted Expected Utilityモデル(DEUモデル)という理論が提唱されている(e.g. Koopmans & Tjalling, 1960)。DEUモデルは、時間割引を考慮に入れたモデルである。時間割引とは、将来の利益・損失の価値を割り引いて評価する心理のことである(e.g. Frederick et al., 2002)。将来の利益・損失が生じる期日と価値評価の減衰の関係を表す関数を、割引関数と呼ぶ。過去の知見から割引関数は、双曲関数などの下に凸の減少関数で近似されることが知られている(Loewenstein, George, & Prelec,1992)。割引関数が下に凸の単調減少関数である場合、DEUモデルは人々が遅延リスク追求的に振る舞うと予測する。

以上のように、EBRとDEUモデルは遅延リスクに対する選好に関して異なる予測を導き出す。過去に人々の遅延リスクにおける選好を検証した研究は二つ存在する(Chesson & Visucusi, 2003; Onay & Onculer, 2007)が、いずれの研究も人々は遅延リスク回避的な傾向を示すと結論している。これらの研究はどちらもDEUモデルの妥当性を検証することを目的としており、EBRの妥当性について言及していない。

そこで、本研究はEBRの妥当性を検証するため、研究1において参加者の遅延リスク選好を測定すると共に、金銭の損失経験によって実験参加者の資源量・遅延リスク選好が変化するかどうか検証した。また、DEUモデルの妥当性を検証するため、実験参加者の割引関数も測定した。その結果、参加者の7割程度が遅延リスク追求的な傾向を示した。さらに金銭の損失を経験しても、資源量・遅延リスク選好は変化しなかった。これはEBRの予測と反する結果である。参加者の割引関数は、双曲関数が最も説明力が高く、下に凸の減少関数であることがわかった。このことから、研究1の結果はDEUモデルの妥当性を支持する結果であったといえる。

研究1の結果から、人々は遅延リスク追求的に振る舞い、DEUモデルの予測に従うことが示された。しかしながら、選好研究の結果とは一致しなかった。彼らは、人々が遅延リスク回避的に振る舞う原因として、確率の過小評価傾向(Onay & Onculer, 2007)、曖昧性回避傾向(Chesson & Visucusi, 2003)が遅延リスク選好に影響を及ぼしているためであると説明した。しかしながら、先行研究におけるこれらの心理傾向と遅延リスク選好との関連性の実証的検証は不十分である。

そこで研究2では、再度参加者の遅延リスク選好を検証すると共に、確率の過小評価傾向、曖昧性回避傾向と遅延リスク選好との関連性を検証した。その結果、8割以上の参加者が遅延リスク追求的な選好を示した。また、割引関数も双曲関数の説明力が最も高く、下に凸の減少関数であることが示された。確率の評価傾向、曖昧性回避傾向と遅延リスク選好との関連性は見られなかった。

本研究の結果、参加者は遅延リスク追求的に振る舞うことが示され、EBRよりもDEUモデルの妥当性が高いことが示された。一貫して本研究の結果と先行研究の結果との間に乖離が見られたが、この原因については未だ不明確であり、今後の検証の余地があるだろう。今後、EBRの妥当性がなぜ低いのか検証・改良することで、異なる観点から提唱された2つのモデルによって多角的に人々の意思決定傾向が理解されることが期待されるだろう。


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