題目: 文化特有の心理・認知を測定する尺度・課題間の相関分析

氏名: 橋本 博文

担当教員: 山岸俊男


 本研究の目的は、文化心理学において議論される心の文化差、認知の文化差を踏まえ、文化心理学研究における“暗黙の前提”、具体的には、文化差を測定するとされる尺度・課題の測定値そのものを「文化的自己観」や「文化的思考様式」の反映とする前提が、本当に正しいのかどうかを検討することにある。この目的をかなえるためには、「文化的自己観」や「文化的思考様式」といった文化心理学の鍵となる理論的枠組みによって整理される、いくつかの尺度・課題を同一の参加者に対して追試し、各尺度・各課題における測定値間の相関分析を行う必要がある。もし上述の前提が成り立つのであれば、各尺度・各課題は同じ潜在変数を扱っていると考えられるため、それぞれの測定値は相関してしかるべきである。

 本研究は、現在、北海道大学社会心理学研究室において実施している「一般サンプル実験」(1回目実施期間:2008年2月〜3月、2回目実施期間:2008年4月〜5月、3回目実施期間:2008年11月) における一つの研究として実施した。この一般サンプル実験は、札幌市在住の一般人を対象とする実験であり (1回目分析対象者:106名、2回目分析対象者:101名、3回目分析対象者:98名)、参加者は文化差に関連する尺度・課題を含め、さまざまな課題、心理尺度に回答することが求められる。文化差を測定するとされる尺度・課題間の関連性を検討するため、本研究ではまず以下の4つの認知系課題を取り上げる。単純な線分の長さを再生する課題であるFramed Line Test (Kitayama, Duffy, Kawamura, & Larsen, 2003)、他者の表情から感情を判断する際に、どの程度周囲の人々の表情に注意を向けるかを測定する表情判断課題(Masuda, Ellsworth, Mesquita, Leu, Tanida & De Veerdonk, 2008)、画像を再認する際に背景情報にどの程度影響されるかを測定する動物画像再認課題(Masuda & Nisbett, 2001)、そして複雑な模様の中に埋め込まれた幾何図形を一定時間内にすばやく見つけ出すことが求められるEmbedded-Figures Test(Kuhnen, Hannover, & Schubert, 2001)である。これらの認知系課題の他にも、ペン選択課題(Kim & Markus, 1999)、帰属課題(Kitayama, Ishii, Imada, Takemura, & Ramaswamy, 2006)、文化的自己観尺度(高田,2000)をはじめとするいくつかの心理尺度を取り上げ、認知系課題間の相関や、認知系課題における成績とIQ得点(京大NXによる測定値)、EQ得点、ビッグファイブ、文化的自己観尺度をはじめとするいくつかの心理尺度の得点との相関を分析した。

 その結果、認知系課題によって示される結果のパタン自体は、概ね先行研究における日本人(東アジア人)の結果のパタンを再現しつつも、課題成績間の相関はほとんど示されないという知見を得た。このことは上述の4つの認知系課題が、文化的思考様式という理論的枠組みによって導かれる同じ潜在変数(具体的には、文脈に影響を受ける程度)を扱っているとは考えにくいということを示唆している。また、これら4つの課題成績とIQ得点との相関を求めたところ、IQ得点、Framed Line Testの誤差、Embedded-Figures Testの成績の間に有意な相関が示された(IQ得点との相関:Framed Line Test(絶対判断課題)の誤差r = -0.27, p < .01、Framed Line Test(相対判断課題)の誤差r = -0.30, p <.01、Embedded-Figures Testの成績 r = 0.58, p < .001)。IQ得点と事後質問紙によって尋ねていた課題の理解度の影響を取り除いたうえで課題間の偏相関係数を求めたところ、有意な相関は示されなかったことから、IQ得点、Framed Line Testの誤差、Embedded-Figures Testの成績の間に見られた有意な相関は、Framed Line TestやEmbedded-Figures Testが、文脈に影響を受ける程度ではなく、単純に知能水準の高低と強く関連するということを示していると考えられる。従来の文化心理学研究では、知能水準による影響をできるだけ防ぐため、偏差値、学力レベルがほぼ同じである大学を選定し、そのうえで比較文化研究を実施するなどの工夫を凝らしている。しかし、本研究で示されたほどまでに、知能水準と各課題における成績が強く関連するのであれば、文化間比較を実施する際には、かなり厳密に知能水準を統制する必要があると思われる。また、本研究で取り上げた4つの認知系課題の成績とEQ得点、ビッグファイブ、その他の心理変数との相関も分析したが、「文化的自己観」や「文化的思考様式」などの理論的枠組みと課題成績を整合的に結び付けるような関連性は示されなかった。注目すべきは、認知系課題の成績と文化的自己観尺度の得点の間に、有意な相関は一切示されないという結果であり、これら一連の結果は、課題そのものが一体何を測定しているのかを再考する必要性を示しているといえる。

 課題成績間の相関が示されないのは一体なぜだろうか。いくつかの可能性を挙げることができるが、少なくとも本研究の結論として言及すべきは、「文化的自己観」や「文化的思考様式」といった理論的枠組みで整理される尺度・課題の測定値は、必ずしも「文化的自己観」や「文化的思考様式」の反映であるとは限らない、ということであろう。本研究で得られた知見は、文化心理学研究における“暗黙の前提”を疑わないこと、そしてこの暗黙の前提に基づいて実証研究から得られた「文化差」を理解してしまうことに対し、警鐘を鳴らす知見であるといえる。今後の文化心理学研究においては、得られた文化差を、既存の理論的枠組みにあてはめて理解するだけでなく、そもそもなぜ文化差が示されるのかについて検討していく必要があるのではないだろうか。


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