題目: 感情の諸相と社会生態学的環境: 経験抽出法と行動実験による検証

氏名: 犬飼佳吾

担当教員: 亀田達也


本研究の目的は,社会生態学的環境と人々の感情との関わりを探索的に検討することである.
 この問題を考えるにあたり,本研究では行動実験と経験抽出法(Csikszentmihalyi & Larson,1987)と呼ばれるフィールド調査の技法を用いた.社会環境と感情との関連を検討した研究に,Nisbett & Cohen (1996) による一連の研究がある.Nisbettらはアメリカの北部の白人男性にくらべて南部の白人男性は,他者から侮辱されたとき「怒り」感情という短期的には損失になりえる感情を発露するということを明らかにした.Nisbettらによると,農業社会で生まれ育った北部の白人男性にくらべ,牧畜社会で育った南部の白人男性は,他者からの搾取や侮辱に対して敏感に反応しやすいという.警察などの監視が行き届きにくい広大な土地で牧畜生活をする南部の人々にとって,家畜泥棒は重大な脅威である.従って,他者から侮辱されたとき,それを許すことなく時に命をかけるほどの損失を払ってでも侠気を見せることは,長期的には利益を生む行為である.Nisbettらのアプローチは,社会環境と感情が密接なかかわりをもつことを示唆している.
本研究では,社会生態学的環境と感情とのかかわりをより仔細に検証するために,実験室における行動実験と生理反応の測定を行い,同一参加者を対象に経験抽出法を用いて日常生活における参加者の感情経験および生活イヴェントを調べた.
 研究1では,実験参加者の感情を喚起させるような2種類の刺激映像を用いて,映像鑑賞前と映像鑑賞後の生理反応が,参加者の生まれ育った社会生態学的環境の差異によって異なるかどうかを調べた.実験で用いた刺激映像は,ゲームのキャラクターが参加者に対して侮蔑・軽蔑する言葉を投げかける映像と社会的な規範が破られた事件に関する映像の2種類であった.また,映像鑑賞前および鑑賞後の「怒り」感情を測定するために,参加者の唾液を採取し,α−アミラーゼを測定した.参加者の社会生態学的環境の指標として,父親の学歴・父親の職業威信スコアを合成した社会階層指標を用いた.実験の結果,侮蔑・軽蔑映像を鑑賞したとき,社会的な規範が破られた事件に関する映像を鑑賞したときのどちらの条件でも比較的高階層の人々のほうがα−アミラーゼの増加率が高いという傾向が見られた.
 研究2では,参加者の日常生活での感情経験とそれを引き起こす生活イヴェントの関係を調べるために,経験抽出法を用いたフィールド調査研究をおこなった.参加者は,1週間にわたって,携帯電話端末を通じて感情と生活イヴェントを報告した.調査の結果,社会階層が高い人々は,日常生活で「うれしい」という感情を報告する頻度が高かった.それに対して,低階層の人々は,「何も感じていない」と報告する頻度が高かった.このことから,社会階層が高い人々のほうが主観的幸福感が高いというBrandburn(1969)の知見が経験抽出法によって得られる日常生活の感情報告によっても見られることが明らかになった.一方,社会階層の低い人々が高い頻度で報告する「何も感じていない」という項目の具体的な内容の多くは「眠い」,「だるい」,「疲れた」などの倦怠感であった.
 研究3は,研究1の行動実験と研究2のフィールド調査を再解析し,実験室における「怒り」感情に関する生理反応および日常生活における感情の生起パタンとのかかわりを調べた.研究2のフィールド調査における参加者の感情経験の報告をクラスター分析し,2つのクラスターを抽出した.第一クラスターに分類された参加者は,日常生活において「うれしい」という感情を報告する頻度が高く,「悲しい・落ち込んだ」,「怒った・ムカつく」,「不安な」などの感情の報告頻度も比較的高かった.一方,第二クラスターに分類された参加者は,「その他」および「何も感じていない」と回答する頻度が高かった.また,第一クラスター,第二クラスターに分類されたそれぞれの参加者の実験室実験における生理反応をみると,第一クラスターに分類された参加者は,侮蔑・軽蔑される映像・社会的規範が破られる映像のどちらの映像に対しても敏感に反応していた.また,第一クラスターの参加者のほうが第二クラスターの参加者に比べて高階層の人々が多いことが分かった.

 これらの結果から,実験室での刺激映像鑑賞時に怒り感情を喚起された参加者は,日常生活において,「うれしい」という感情を多く報告するのに対して,実験室においてあまり怒り感情を喚起されなかった参加者は,日常生活においても無感情状態であると報告することが多いことが明らかになった.さらに,日常生活においても実験室においても感情を喚起されやすい人々は,高階層の人々であるのに対し,日常生活においても実験室においてもあまり感情を喚起されなかった人々は低階層の人々であった.これまで,社会階層の違いによって,親の子に対するしつけの違い(広田,1999),子供の学力の違い(苅谷,2001),中高生のやる気の違い(苅谷,2001)が指摘されているが,本研究の結果から,感情の喚起されやすさが階層によって異なることが示唆された.


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