題目: チンパンジー行動内分泌学

氏名: 池田功毅

担当教官: 亀田達也


血液中のグルココルチコイド濃度をストレス反応の指標として、これまで動物の社会順位とストレスとの関係について、多くの実験が行われてきた。それらでは、社会的に下位の個体が、上位の個体とよりもより強いストレス反応を見せるという結果が得られてきた [e.g. Blanchard et al. 1995]。しかしながら、近年の野生動物を対象とした研究からは、逆に上位個体の方が下位個体より高いグルココルチコイド濃度、すなわちより強いストレス反応を示しているという事例が、数多く報告され始めている [Creel 2001]。ところが、これまでの心理社会的ストレスに対する一般的な説明では、このように上位個体が下位個体よりも強いストレスを経験するという現象をうまく解釈できない。なぜなら、一般に心理社会的ストレスは、未来についての予測不可能性や、周囲の環境に対する制御不可能性によって引き起こされると言われているのだが [Sapolsky 2002]、これらの要因は、通常上位個体に当てはまらない特性であると考えられるためである。

  霊長類においても、たとえばメスのワオキツネザル[Cavigelli et al. 2001]やオスのチンパンジー[Muller and Wrangham 2004] などで、上位個体が高いグルココルチコイド濃度(霊長類の場合、コルチゾル濃度)を示す例が報告されている。さらにこの双方の研究では、攻撃行動の頻度とストレス反応との間に相関が見られた。そこで、上位個体特有の高いコルチゾル濃度の原因を解明する糸口として、次のようないくつかの検討課題が提案されている [Cavigelli et al. 2003]。(1) 攻撃行動そのものが高いコルチゾル濃度を導いている可能性、もしくは間近の将来に生じうる敵対的相互交渉への予期が、高いコルチゾル濃度を導いている可能性。(2) 上位個体特有の高いコルチゾル濃度は、急性的なストレス反応の結果なのか、あるいは、慢性的なものに由来するのか。 (3) 野生状態では、上位個体は下位個体より多くの食物資源を確保できるために、体内に蓄えられるエネルギー量も多くなる。今のところ作用機序は詳しく分かっていないが、そのようなエネルギー貯蓄量の差が、上位個体に特有の高いコルチゾル濃度を導いている可能性がある。

  これらの要因について、より詳細なデータを収集すべく、我々は、4頭のオスチンパンジーグループを対象とする実験を行った。オスグループは1日に2時間、屋外運動場へ放飼された。1日3回、放飼の直前、直後、放飼終了2時間後に、唾液検体が採取され、これら唾液中のコルチゾル濃度が、酵素免疫測定法により測定された。放飼中の2時間、オール・オカランス法により行動観察が行われた。実験は10日間続けられ、5日目以降の6日間、発情期にある個体一頭を含むメス4頭のグループが、オスからは視認可能だが直接的接触は不可能な運動場へ、オスグループと同じ時間帯に放飼された。オスグループの社会的順序は、パント・グラントの方向性から判断された。

  結果、上位2個体において、メスグループの導入により、攻撃行動の生起頻度に有意な変化が生じた (F(1, 16) = 23, p < 0.001)。またメスグループの導入は、コルチゾルの通常の日内変動パターンを妨げ、全個体に同様のパターンで、急性的なストレス反応をもたらした。しかしながら、コルチゾルの一日平均値を見てみると、唯一アルファオス(最上位のオス)のみが、メス導入によって有意な変化を示していた (F(3,95) = 3.69, p = 0.02)。また攻撃行動とコルチゾル濃度の相関を、アルファオスを含む上位2個体で見た場合でも、攻撃行動頻度と急性ストレス反応との相関は2個体ともに見られたが、攻撃行動頻度と一日のコルチゾル平均値の間の相関は、アルファオスでしか見られなかった (rho = 0.88, n = 10, p < 0.01)。

  これらの結果から、メスグループの導入は、オスグループ内の攻撃行動の頻度を高め、またすべての個体において急性的なストレス反応を起こしていたことが分かる。しかし一方で、唯一アルファオスのみが、独特の慢性的ストレス反応を経験していた。このアルファオス特有の慢性的ストレスの原因を、上述の諸要因 [Cavigelli et al. 2003] と照らし合わせて考察してみると、まず本研究では給餌条件に個体差がなかったため、個体間のエネルギー貯蓄量に関する仮説は除外されていたと考えられる。次に、アルファオスのストレス反応は、急性的であるばかりでなく、慢性的なものでもあった。さらに、攻撃行動頻度の上昇が、必ずしも慢性的ストレス反応を伴うものではなかったことから、アルファ特有の慢性的ストレス反応は、攻撃行動の生起頻度だけによって説明できない。以上から、残された説明の可能性として、アルファオス特有の慢性的ストレスは、間近に迫った敵対的相互交渉に対する予期によって引き起こされたのではないか、という仮説が残されたことになる。


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