題目: 社会制度と心の社会性: 心の文化差生成に関する実験的研究

氏名: 鈴木直人

担当教官: 山岸俊男


 本研究の目的は、特定の社会環境に生きる人々が、自らの認知のあり方をその社会環境に適応させていく過程を明らかにすることにある。

 この問題を考えるにあたり、本研究では、実験室に創り出した社会環境が人々の認知過程に与える影響を測定する実験を行なったが、その際、文化によって基本的な認知過程が異なることを示している比較文化研究の知見を手掛かりとした。比較文化心理学あるいは文化心理学が明らかにするところによれば、欧米文化圏と東アジア文化圏の間では、人々の認知過程に根本的な差異が認められる。Nisbett (2003) は、欧米文化圏で優勢な認知スタイルを分析的認知 (analytic cognition)、東アジア文化圏で優勢な認知スタイルを包括的認知 (holistic cognition) と呼ぶ。分析的認知とは、対象や対象が属するカテゴリーに注目し、人の行動や事物の動きを理解・予測する際には規則性(論理)を用いる認知スタイルのことである。一方、包括的認知とは、全体的背景に注目し、人の行動や事物の動きを理解する際には、対象と背景(文脈)との関係性を重視する認知スタイルである。Nisbett (2003) の理論は、多くの比較文化研究の実証的知見をもとに構築された統合的理論であり、また、認知過程の文化差を生み出した究極的要因として、古代ギリシャと古代中国の哲学的伝統、政治的環境、さらには生態学的環境の違いを想定する歴史的視点にその特徴がある。

 このような認知の文化差に対する説明に対して、本研究では人々の相互作用の秩序を形成・維持する「社会制度」にその原因を求め、社会制度の違いが認知過程に影響を及ぼすという仮説を検証した。具体的には、2種類の社会制度として、集団内のメンバーを騙すとその情報が集団内の全てのメンバーに共有される「評判システム」と、集団内の各人がコストを負担して運営する「公的制裁システム」という2つの制度を実験室に創り出した。この2つの制度—評判システムと公的制裁システム—を比較する背景には、Greif (1989; 1993; 1994; 2002) による歴史制度分析の知見がある。Greifによれば、法による契約執行メカニズムが未整備の状態にあった中世地中海において、ユダヤ人の下位グループであるマグリビ商人たちは、取引相手を同じマグリビ商人に限定することによって閉ざされた集団を形成していたという。マグリビ商人の間では、頻繁に情報のやり取りが行われていたが、流通する情報の中には商品に関する情報ばかりでなく、他のマグリビ商人についての「噂話」も含まれていた。たとえば、ある商人が取引相手の売上金を搾取したという情報が流されると、すべてのマグリビ商人がその商人との契約を打ち切るといった集団的な罰(多角的懲罰戦略)が実行されていた。このように評判システムは、公的制裁制度がない場合の秩序形成手段として有効に機能してきた制度である。

 ところで社会環境への適応という観点から見れば、評判システムが優勢な社会では、集団内で孤立しないことが各人にとっての重要な適応課題となると考えられる。たとえば、集団内の他者の視線に敏感になり、自己を取り巻く関係性に注意を払うことが必要となる。また、他者の行動を予測する際にも、その人がいまどのような関係性の中に埋め込まれているかを正確に理解することが必要となるだろう。このように、特定の社会制度下において要求される認知過程とNisbett (2003) のいう包括的認知との概念的な親和性に着目し、評判システム下での相互作用を経験することにより、東アジア型の包括的認知スタイルが活性化するという仮説を導いた。

 この仮説を検証するために4つの実験が実施された。4つの実験のうち3つ(実験1・実験3・実験4)に共通する手続きとして、実験参加者に異なる制度の下での相互作用(擬似市場における商品取引実験)を経験させ、その後に各参加者の認知指標の値を測定した。実験1では放送大学の学生 (n = 91)、実験3 (n=89) と実験4 (n=32) では北海道大学の学生を参加者とした。実験の結果、いくつかの認知指標について仮説と一貫する結果が得られた。たとえば、色の比率に偏りのあるペンの束の中から1本のペンを選ばせるペン選択課題では、評判システムを経験した参加者は、多数派の色のペンを選択する傾向が認められた。この多数派選択傾向はKim & Markus (1999) によれば、東アジア人において優勢な傾向であり、多数派同調傾向を測定する指標と考えられる。すなわちこの結果は、評判システムを経験することにより、東アジア型の選択傾向が優勢になることを示唆している。ただし、別の課題に関しては、仮説は支持されなかった。たとえば、周囲の情報を無視する能力と周囲の情報を統合して処理する能力を測定するFramed Line Test (Kitayama, et al., 2003) に関しては、実験1で仮説を支持する結果が得られたものの、実験4では支持されないなど、曖昧な結果であった。考察では、評判システムを実験室へ実装する際の問題点など方法論的問題を議論した。


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