題目: 不安伝染の適応基盤を探る −進化心理学的アプローチ−

氏名: 田村 亮

担当教官: 亀田達也


 不安を感じている他者を見ただけで、つい自分も不安に駆られてしまうことがある。しかし、他者が不安になる原因が自分とは全く関係が無いのであれば、他者の不安につられ自分も不安になることは、個人にとっては不利益となる。例えば、他者の不安に影響を受けたために、自分が行うべき課題に手が付かなくなることは、そのような不利益の一つである。このようなデメリットがあるにも関わらず、なぜ人には、他者の不安があたかも自分にも伝染してしまうような心理メカニズムが備わっているのだろうか。本研究は、不安の伝染が個人にもたらす利益、及び、不安伝染の存在を可能にする環境構造の解明を、進化心理学的なアプローチにより試みる。

 不安伝染の前提となる「不安」という感情そのものは、進化心理学的な観点から、「恐怖」に先行するサブプランであり、危険に対する「順次点検プラン」を発動させる感情と捉えられている(戸田, 1992)。すなわち不安という感情は、危険に対処するために人に備わっている感情と考えることができる。このことから不安の伝染という心理メカニズムもまた、危険に対応するための機能といえないだろうか。

 集団全体が共通の危険に直面しているような状況では、他者が不安状態にあることは危険の接近を示すシグナルとなるため、自分もその他者に習って不安になる方が良いかもしれない。つまり、集団が危険に直面する状況では、不安伝染が適応的に機能する可能性がある。言い換えると、そのような状況は、不安伝染の存在を可能とする環境構造を持つのではないだろうか。本研究は、実験室上に集団が共通の危険に直面する状況を再現し、被験者に相互作用を行わせることで、この仮説の検証を行う(実験1)。不安が伝染することによって起こると考えられる警戒行動の転移が安定して存在するならば、不安伝染はそのような状況で適応的な機能を持つと言える。

 実験1では、以下の6種類の制約がある環境を、集団が共通の危険に直面する状況として用いた。1)被験者はグループで実験に参加する。2)被験者は報酬を得るために計算問題を解く必要がある。3)同じグループの被験者に対して同じタイミングで危険(報酬の減額)が襲う。4)危険の接近は不確実な手がかりとして、被験者に知らされる。5)被験者は互いの行動を知ることができる。6)危険発見のためには、1人の警戒では不十分である。

 上記の状況は、危険が同じタイミングでグループを襲うため、集団が共通の危険に直面する場面である。また、計算問題とともに危険の回避を行う必要があることから、被験者は「稼ぐ」と「稼ぎを守るために警戒する」というトレード−オフ関係にある2種類の課題を行わなければならない。さらに、他者の警戒は危険の接近を示すことから、他者の警戒行動を観察したときに、自らも不安になり警戒に移ることは、自分の利益になる可能性が高い。ただし、誰かが危険を発見した場合、そのことが即座に集団全員に知らされるので、警戒は他者に任せ自分は栄養摂取に専念したほうが合理的というフリーライダー問題も、この環境には存在する。実験1では以上のような状況における被験者の振る舞いを検討した。

 実験の結果、警戒行動の転移がフリーライダー問題を越えて、安定して存在することが確認された。また警戒行動に関する個人の戦略は、多型に近い形で生じることが明らかになった。警戒行動の転移に伴う不安の伝染は、集団が共通の危険に直面する状況において、適応的な機能を持つと言える。またそのような状況は、不安伝染の存在を可能にする適応基盤と考えることができる。

 しかし、この結果はあくまで、警戒行動の転移が不安の伝染を伴うと見なした上でのものであり、両者が連動するか否かは定かではない。そこで本研究では、両者に密接な関係が存在することを、実験1の事後質問紙と、皮膚コンダクタンス反応(SCR)を指標とした生理心理学実験(実験2)で検討した。

 実験1の事後質問紙では、被験者の不安傾向や共感性を測定した。分析の結果、警戒行動の転移が高い頻度で観察された高警戒転移者は、低警戒転移者と比較して感情的な冷たさという点で共感性が高いことが明らかになった。不安の伝染は相手の状態に共感することで生じると考えられることから、警戒行動の転移に不安伝染が深く関係している可能性が高い。

 また実験2では、感情の生起に伴って現れるとされているSCRを測定することで、警戒行動の転移と不安伝染関係を検討した。様々な感情が表出された写真を知覚した際のSCRを測定したところ、高警戒転移者は「悲しみ」表情に対して有意に高い反応を示した。「不安」表情に対して警戒転移頻度の高低間に差異は見られなかったが、悲しみは不安とともにネガティブな感情であることから、警戒行動の転移はネガティブな感情により引き起こされていると考えられる。この結果も、警戒行動の転移と不安の伝染の関係を示すものである。

 以上2つの実験から、集団が共通の危険に直面する状況は、不安伝染の存在を支える環境構造を持つことが明らかになった。また、そのような状況において適応的であるからこそ、不安の伝染は安定して確認されたと言える。


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