題目: Ingroup Favoritism and Gender Differences in China(中国における内集団ひいきおよび性差)
氏名: 王 飛雪
主査: 山岸俊男
第1実験は、「最小条件集団」を用いて内集団への信頼を調べた実験である。この実験の参加者は、まず、些細な基準に基づいて作成された2つの「最小条件集団」に分けられる。最小条件集団とは、日常生活でほとんど意味をもたない些細なカテゴリーによって区別された集団であり、集団内においても集団間においても、成員間に何ら相互作用が存在しない、いわば名目的な集団である。実験参加者は、まずこれら2つの最小条件集団に分けられた後、Trust GameないしFaith Gameのいずれかの条件で、もう一人の実験参加者(自集団の成員か、あるいはもう一つの集団=外集団の成員)への信頼の程度を示す行動を選択する。具体的には、実験参加者は、実験参加への報酬として10元を実験者から直接にもらうか、それとも、もう一人の参加者(分配者)が25元の中から自発的に分配してくれた金額をもらうかを決定する。分配者に対しては、報酬分配についての決定は完全に匿名で行われることと、分配はどのようにしてもかまわないことが強調されている。この際、分配者が公平な分配をするだろうと期待できれば、10元以上の報酬が予想されるため、分配者からの分配を選択するはずである。これに対して、分配者が自分の利益だけを考える人間であると判断すれば、実験者から確実な10元をもらう選択をするはずである。従って、「受け手」の役割に割り振られた実験参加者がいずれの選択をするかは、分配者に対する信頼を実際の行動で測定することになる。実験の結果、予想された内集団成員に対する高い信頼は見られなかったが、実験に用いられた実験ゲームの種類と性別とが、有意な交互作用効果を持つことが明らかにされた。具体的には、Faith Gameにおいては分配者に対する男女差が存在しないが、Trust Gameには大きな男女差が存在するという結果である。ここでの重要な違いは、分配者からの公正な分配の期待ないし分配者に対する信頼の基盤に、互酬性の期待を含めることができるかどうかという点にある。Faith Gameでは分配者からの互酬的行動を期待できないのに対して、Trust Gameでは、分配者への信頼に対する互酬的行動として、分配者からの公正な分配行動を期待できる構造が存在している。実験の結果は、信頼に対する返報が期待できるTrust Gameにおいてのみ男女差が観察され、男性のほうが女性よりも高い信頼行動を示すというものであった。また、男性はFaith GameでよりもTrust Gameで信頼行動の比率が増大するのに対して、女性の間では、Trust Gameで信頼行動が大幅に低下することが示された。また、事後質問紙に対する回答の分析から、女性がTrust Gameで信頼行動を示さなくなるのは、信頼行動を示すことで相手からの搾取的行動を招き寄せることになるという「搾取の不安」によるものであることが明らかにされた。これに対して男性の間では、信頼行動を示すことが相手からの返報を招き寄せるという互酬性の期待が存在していた。
第2実験は、第1実験と同様の方法で2つの最小条件集団を人為的に作り出し、内集団成員ないし外集団成員を相手に、参加者が囚人のジレンマゲームを行うというものである。これまで繰り返し行われてきた同様の実験では、内集団成員を相手にした場合に、外集団成員を相手にした場合よりも高い協力率が示されてきた。第2実験においても、同様の「内集団協力」行動が見られたが、それは女性の間のみであり、男性参加者の間では外集団成員に対する協力率が内集団成員に対する協力率をわずかばかり上回る、逆の結果が観察された。また、男性参加者の協力行動は相手からの協力行動の期待と高い相関を見せたが、女性参加者の間では、本人の協力行動と相手からの協力行動の期待の間にほとんど関連が見られなかった。
第3実験は、第2実験と同様な方法で、内集団成員ないし外集団成員を相手に囚人のジレンマを行うというものであったが、最小条件集団ではなく、実際の友人集団を用いてグループ分けをした点で、第2実験と異なっていた。実験の結果は第2実験と一貫したものであり、最小条件集団ではなく友人集団を用いた場合にも女性は内集団協力行動を示すのに対して、男性は外集団成員を相手にした場合により協力的になる「外集団協力行動」を示すことが明らかにされた。また、第3実験では、女性は相手からの協力を期待できない条件においても、内集団成員に対して協力的な行動を示すことが明らかにされた。事後質問紙への回答の分析からは、第1、第2実験と同様に、男性の間では相手からの協力行動の期待が本人の協力行動と強く相関しているのに対して、女性の間では、相手からの協力行動の期待と本人の協力行動とがほとんど関連していないことが明らかにされた。
これらの実験は、本論文の3章から5章にかけて紹介されており、本論文の中核をなしている。これらの実験の紹介に続く第6章では、日本で実施された同様の実験の結果との比較がなされ、上述の実験結果に示された男女差が、日本人の実験参加者の間では見られないことが明らかにされている。すなわち、日本人の実験参加者の間では分配者信頼行動や囚人のジレンマでの協力行動に男女差がほとんど存在せず、また相手からの好意的な行動の期待と本人の行動が、男女ともに一貫して存在していることが明らかにされた。
残りの3つの章である、第1章、第2章、および第7章では、これらの実験結果の意味が議論されている。まず第1章では、本章での議論の中心概念となる社会関係資本の概念が紹介された後、中国における社会関係資本を理解する際の鍵概念となるguanxi(関係)とrenqing(人情)が紹介され、guanxiに代表される社会関係資本のあり方に男女差が存在することが指摘されている。第2章では、本論文で紹介されている一連の実験の背後にある、社会心理学的な概念および理論の紹介がなされ、中国における集団間および集団内行動の男女差を研究するための方法としてこれらの実験を用いることの意義についての説明がなされている。最後の第7章では、第1章で紹介された中国における社会関係資本の性差という観点から上述の3つの実験結果の検討がなされ、親族を中心とする女性のguanxiのあり方を、男性の間での交換関係としてのguanxiのあり方と対比する議論が展開されてるなかで、女性の内集団ひいきが自集団に対する無条件協力行動として存在するのに対して、男性の間では直接的な互酬性の原理に基づく行動が集団間においても集団内においても存在することが指摘されている。