題目: 社会的交換ヒューリスティック:内集団バイアスと互酬性の認知的基盤
氏名: 清成 透子
主査: 山岸俊男
1970年代の初頭にH. Tajfelらが実施した最小条件集団実験は、集団問題に関心を持つ社会心理学者に大きな衝撃を与えた。その理由は、人間は些細な基準に基づいて集団にカテゴリー化されるだけで、自集団の人間を優遇し、他集団の人間に対して差別行動をとるという結論を、実験の結果が示したからである。このような集団成員間に相互作用のない、些細な基準に基づいて作られた最小条件集団状況においても、実験参加者が自集団の成員に有利な報酬分配を行うことを示すTajfelらの実験結果は、人間は集団の一部に自己のアイデンティティーを依存しており、そのため自集団を他集団から好意的に区別する傾向をもつとする、社会的アイデンティティー理論を生み出した。この理論によれば、最小条件集団における内集団ひいき行動は、自集団との間に存在する社会的アイデンティティーにその原因があるとされている。しかしその後、神と山岸らは、T最小条件集団状況で内集団ひいきが生まれたのはカテゴリー化の作用によるのではなく、参加者が集団内部で「ひいきの互酬性」を期待するからであるとする「閉ざされた一般的互酬性の期待」仮説を提出し、他の内集団成員からの優遇行動を期待できない条件では内集団ひいき行動が生まれないことを示す実験を繰り返すことで、その説明の妥当性を検証してきた。本論文の第1章から第3章にかけては、これらの研究の流れを概括している。
第4章では、「閉ざされた一般的互酬性の期待」仮説にもとづく最小条件集団実験結果の解釈を明確化する目的で行った、第1実験が紹介されている。内集団の成員と外集団の成員を相手に囚人のジレンマを行わせた第1実験の結果は、相手が内集団成員の場合にも、その相手が自分のことを内集団成員だと思っていることがわからないかぎり、内集団ひいき行動(あるいは内集団協力行動)が生まれないことを示している。この点はすでに神と山岸により指摘され、内集団成員からの好意的行動の期待が内集団ひいきの原因であることの証拠として挙げられているが、本実験はこの従来の結果を追認すると同時に、相手が自分のことを内集団成員だと思っているが、その相手が本当に内集団の成員かどうかを不明であるという、この実験で新たに設定された条件において内集団協力行動が発生しないことを発見している。この結果をもとに、内集団協力行動が生まれるためには、相手からの協力の期待が存在するだけでは不十分であり、囚人のジレンマの構造が安心ゲームの構造へと主観的に変換されている必要があるとする議論が提出されている。このゲーム構造の主観的変換というアイディアは、以後の章で、「社会的交換ヒューリスティック」の概念へと発展していくことになる。
第5章で紹介されている第2実験では、囚人のジレンマにおいて二人のプレイヤーが同時に手を決める通常の手続きを取った場合(同時PD)と、第1プレイヤーが最初に手を決め、その選択結果を知った上で第2プレイヤーが手を決めるという手続きを取った場合(順次PD)で、参加者(順次PDの場合は第1プレイヤー)の行動がどのように異なるかが比較された結果、相手が内集団メンバーか否かは、同時PD条件においては協力率に影響を与えるが、順次PD条件では差を生み出さないことが明らかにされている。この結果は、第1プレイヤーの行動が実際に第2プレイヤーの行動に影響を与えうる順次PD条件においては、対戦相手の集団所属性にかかわらず直接的交換関係にもとづく互酬性が期待されるが、二人のプレイヤーの間の相互行動統制が存在しない同時PDにおいては、「閉ざされた一般的互酬性の期待」を生み出す集団所属性の共有が存在する場合にのみ互酬性が期待されることを意味している。以上の結果は、最小条件集団における集団所属性の効果が一般的互酬性の期待にもとづくものである新たな証拠を提出するとともに、集団状況で互酬性の期待を生み出す「社会的交換ヒューリスティック」の重要性を指摘している。
上述の二つの実験結果は、社会的アイデンティティー理論の立場からの最小条件集団実験結果の解釈が誤りであることを明白に示しているが、神と山岸らによる先行研究を含め、これらの研究結果はこれまで、社会的アイデンティティー理論の立場に立つ研究者に大きなインパクトを与えてこなかった。その理由は、具体的な報酬(たとえば金銭)の分配ではなく単なる得点や成員の評価を用いた実験では、常に内集団成員に対する好意的な評価が観察されてきたからである。第6章では、最小条件集団状況での信頼行動を用いて、内集団の成員に対する好意的な評価である「内集団評価」と内集団成員に対する実際の信頼行動とが独立であり、評価は行動と結びついていないことを示す第3実験が紹介されている。第3実験では、本研究で新たに開発された「分配委任ゲーム」と「信頼ゲーム」を用いた実験により、いずれのゲームを用いた場合にも、内集団成員に対する高い評価は生まれるが、内集団成員に対する信頼を反映する行動は観察されないことが明らかにされている。
第7章で紹介されている第4実験では、第2実験で用いられた同時PDと順次PDの比較を、金銭的報酬を与える「完全実験」と、場面想定法を用いた実験とで行い、順次PDでの高い協力率が「完全実験」でのみ発生するであろうという予測が支持されている。この結果は、通常のゲーム理論にもとづく予測とは完全に対立する予測であり、社会的場面における人間行動が直感的意思決定方略であるヒューリスティックに支配される程度が高いことを示すものである。本論文の文脈では、この実験結果は、社会的交換場面では、直感的意思決定方略としての社会的交換ヒューリスティックが作用していることを示すものと言える。
最後の第8章では、これらの実験結果についての総合的な検討が行われている。論文全体では、(1)社会的交換場面では社会的交換ヒューリスティックがデフォルトの意思決定方略として作動する可能性が高いこと、(2)2者間に直接の交換関係が存在しない場合には、集団所属性の共有が社会的交換ヒューリスティックの作動を促進する手がかりとなること、(3)そして最小条件集団における内集団ひいき行動は、集団が手がかりとなって社会的交換ヒューリスティックが作動したことにより引き起こされたものであること、の3点が結論として引き出されている。